1937年2月2日福岡出身の広田弘毅内閣が総辞職する。
二・二六事件の責任をとり総辞職した岡田内閣の後には、初めに近衛文麿に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため、元老西園寺公望は、広田弘毅に首相就任を引き受けさせるため、近衛文麿と吉田茂を説得役として派遣した。広田は拒み続けたが、ついには承諾し、1936年(昭和11年)3月5日、天皇から組閣大命が下る。閣僚選出について軍部の干渉を受け(軍部による吉田茂入閣拒否他)つつも、3月9日、広田内閣が成立した。
就任後は、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍事拡張予算を成立させるなど、軍部の意見を広範に受け入れることとなる。11月には日独防共協定を締結。しかし翌1937年(昭和12年)1月、議会で浜田国松議員の「割腹問答」があると、これに激怒した寺内寿一陸相が広田に解散を要求、ところが広田はあっさり総辞職した。広田の後任として組閣命令を受けたのは宇垣一成であったが、軍部が反対し流産。替わって林銑十郎に組閣大命が下り、2月2日に林内閣が成立した。その後、第一次近衛内閣の外務大臣に就任、重臣・貴族院議員なども歴任した。戦時中は東郷茂徳や石黒忠篤とともに院内会派無所属倶楽部を組織して東條内閣や大政翼賛会と対抗した。
なお、現在の国会議事堂は、広田が首相の時に完成している。
福岡市中央区の福岡市美術館前に広田の銅像が設置されている
2007-02-07 12:54. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(1) • [固定URL]




