音二郎の再来 渡邊 晋が逝く
芸能ビジネスを創った渡辺プロダクション創設者渡辺晋は、1987(昭和62)年1月31日に59歳の若さで急逝した。両親は福岡出身の晋さんは、芸能界に給与制度を導入しエンターメント界の発展に貢献した。美佐さんと2人3脚で活躍したが、現代の貞奴と新劇を起こした川上音二郎と言えよう。
1927年3月2日~1987年01月31日
昭和2年~昭和62年
東京都生まれ / 戦後最大最強の芸能プロダクションを妻・美佐とともに一代で築き上げたナベプロ創始者。唐人町に眠る。
鳥のように軽く天空を舞った画伯 中村琢二が逝く
1897年04月01日~1988年01月31日
明治30年~昭和63年
新潟県佐渡島 / 中村研一の弟で児島善三郎が始めた中学修猷館のパレット会がスタート。
飯野グループの総帥 飯野寅吉が逝く
1865年02月01日~1949年01月31日
慶応元年~昭和24年
直方市生まれ / タンカー業界の先駆者で飯野海運を創立し海運業に貢献する。 1899(M32)舞鶴鎮守府の開庁とともに舞鶴に来住、飯野商会を創立して港湾荷役業を始める。三大会社、飯野海運(株)、飯野重工業(株)、飯野産業(株)の基礎を築く。また'37(S12)には中舞鶴町のために役場庁舎を新築寄贈した。
福岡県直方市出身。早くから企業心に燃え、大阪市で石炭販売業を営む。1899(M32)舞鶴鎮守府の開庁とともに舞鶴に来住、飯野商会を創立して港湾荷役業を始める。その後、成功を収め1918(T7)12月に資本金百万円をもって飯野商会を株式組織に改め、飯野商事(株)を発足する。 '21(T11)4月には海洋進出を目指し飯野汽船(株)を創立。'39(S14)12月に東亜林業(株)を起し、東南アジアに進出。その後各社の経営合理化のため合併、分割等を行い、三大会社、飯野海運(株)、飯野重工業(株)、飯野産業(株)の基礎を築く。また'37(S12)には中舞鶴町のために役場庁舎を新築寄贈した。享年83歳。
稲作改良に貢献 林遠里が逝く
1831年01月24日~1906年01月31日
天保2年~明治39年
福岡市生まれ / 1883年勧農社を設立「筑前農法」を全国に普及し全国の稲作改良の気運に大きな刺激を与えた。
2007-01-30 01:32. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
無法松の一生 岩下俊作が逝く
1906年11月16日~1980年01月30日
北九州市小倉区生まれ / 直木賞候補「富島松五郎伝」が1943年に映画化され大ヒット。「小倉生まれの玄海育ち」の言葉が流行。
憲法改正を後輩に託す 緒方竹虎が誕生
1888年01月30日~1956年01月28日
明治21年~昭和31年
山形市生まれ / 敗戦直後の混乱を収拾し、戦後の保守合同に心血を注いだ玄洋社の流れをくんだ政治家。
「サザエさん」 長谷川町子が誕生
1920年01月30日~1992年05月27日
大正9年~平成4年
佐賀県多久市生まれ / 昭和21年04月22日夕刊フクニチでスタートし、連載6477回「国民まんが」になった。
2007-01-25 01:19. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
ペースメーカーの父 田原淳が逝く
1873年07月05日~1952年01月29日
明治6年~昭和27年
大分県東国東郡生まれ / 九大の医学部長。哺乳動物心臓の電気的刺激伝道路発見は、現在世界で年間100万人以上の命を救う。
曲水の宴 田中諭吉が誕生
1901年01月29日~1970年09月05日
福岡市博多区川端に生れ、太宰府天満宮の曲水の宴を始め数々の宗教行事を組み立てる。
リンクhttp://tiara.cs.fit.ac.jp/~yukichi/
2007-01-25 01:18. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
憲法改正を後輩に託す 緒方竹虎が行く
1888年01月30日~1956年01月28日
明治21年~昭和31年
山形市生まれ / 敗戦直後の混乱を収拾し、戦後の保守合同に心血を注いだ玄洋社の流れをくんだ政治家。
博多にわか師 生田徳兵衛が逝く
1889年~1967年01月28日
明治22年~昭和42年
福岡市中央区生まれ / 博多にわかを海外(満州、台湾やハワイアメリカ西海岸)に紹介した博多にわか界の第一人者。
宇宙飛行士 鬼塚承二が逝く
(エリソン・ショウジ・オニツカ)
1946年06月24日~1986年01月28日
昭和21年~昭和61年
アメリカハワイ州ハワイ島出身。1946年人類初の月到達の26年後、1985年01月24日、スペースシャトル・ディスカバリー号にて初飛行(任務宇宙飛行士)し、両親の出身地浮羽町に墓参。翌年01月28日2度目の宇宙にチャレンジで尊い犠牲者となった。
「1996年01月28日、その予期せぬ悲劇は起こった。米東部標準時間午前11時39分、轟音とともにケネディ宇宙センター39B発射台を離れたミッション51L「チャレンジャー」は72秒後に突然として紅蓮の炎に包まれた。この瞬間、最もアメリカ的な側面を代表する宇宙飛行士7人の尊い生命が失われた・・・・・その男の名を『エリソン・S・オニヅカ』という。エリソン・オニヅカの曽祖父は浮羽町の出身で名をイチヘイといった。エリソンは、1983年に妻や娘たちと母を連れて浮羽町にある鬼塚家代々のお墓参りへ訪れた。浮羽町では、エリソンを郷土の英雄として今でも語り継がれている。」と町では紹介し、「宇宙で初めて箸を使い、すしを食べた男」と浮羽商工会議所は紹介している。
2007-01-25 01:18. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
広告の鬼 吉田秀雄が逝く
1903年11月09日~1963年01月27日
北九州市小倉区生まれ / 戦後電通の社長に就任し、常に国際的視野から広告業及び広告業界全体の近代化に貢献した。
2007-01-25 01:17. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
教育テレビ創設 永田清が誕生
1903年01月26日~1957年11月03日
明治36年~昭和32年
久留米市生まれ / 吉田茂のブレーンを務めた経済学者で経営者からNHK会長と幅広く活躍、教育テレビを始める。
コイ養殖 広松嘉一が逝く
1907年11月04日~1981年01月26日
明治40年~56年
大川市生まれ / 本県を全国有数のコイ養殖産地として育成に貢献した篤農家。
国士舘創設者 柴田徳次郎が逝く
1890年12月20日~1973年01月26日
明治23年~昭和48年
筑紫郡那珂川町生まれ / 1917年(大正6年)11月04日、頭山満,緒方竹虎、中野正剛等の協力で東京麻布に私塾国士舘を創設。
詩人 川崎洋が誕生
1930年01月26日~2004年10月21日
昭和5年~平成16年
東京都生まれ / 八女高から西南学院中退。ラジオやテレビ、映画のシナリオなどでも活躍幅広く活躍した詩人。
2007-01-25 01:17. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
2007年スタート、心元気で生涯現役!
新遊民の集い'07
日 時
2007年2月23日(金)午後6時~8時
*歴史と交流のシンボル国宝・金印の発掘記念日に毎年開催。10周年を迎えました。
会 場
エルガーラホール・8階大ホール 福岡市中央区天神1-4-2 TEL092-711-5017
参加料
3500円 ※金印レプリカ贈呈チャリティ寄金を含みます。
☆チッケトぴあ、ぴあステーション、ファミリーマートで発売中。
講談 講談師 神田 紅
この男の人間力を学ぶ「電力王 まつ松ながやす永安ざ左えもんエ門」
鬼と呼ばれた陽気なドンファン
1875(明治8)年12月01日-1971(昭和46)年6月16日)長崎県壱岐生まれの亥年男。福岡を活動の主舞台とし、福沢諭吉譲りの「独立自尊」の精神で、安心・安全な社会をつくるために命を賭け闘い、9電力会社をつくった大物実業家。美術コレクター、茶人としても知られる。
95年の生涯を現役で貫き通した破天荒な強い男の生き方に学ぶ!ご期待下さい。
講演 京都大学名誉教授 神田 啓治
「本当の幸せは70歳から
~友人 ロックフェラーとの結論~」
学生時代のルームメイトはジョン・ロックフェラー四世。大富豪・政治家の華麗なる一族に生まれた彼も求める幸せとは…。
生涯現役宣言!日本の明日のために世界中を元気に駆け巡る神田教授。その筋金入りの野次馬根性も健在。お楽しみに!
かんだ けいじ…中性子テレビジョン・電子オルガン等の発明・商品化、貿易管理の第一人者、1987年フランス国家功労勲章受賞、2004年内閣総理大臣賞受賞、経済産業省・文部科学省・IAEA(国際原子力機関)の審議員や顧問、京都大学原子炉実験所教授、京都大学大学院エネルギー科学研究科教授、中性子療法の国際学会会長、などを歴任。現在エネルギー政策研究所所長、武蔵工業大学教授、電力中央研究所研究顧問。著書「聖書、バッハ、原子力」「森羅万象の物語」
紅&啓治の心元気に人生トーク
心元気なW神田のここだけのお話…お楽しみください。
※午後8時~元気になる懇親会を福岡国際ホールで開催。事務局までお問い合わせ下さい。(会費4,500円)
2007-01-22 01:23. [ 記念館&立志塾ニュース ] コメント(0) • [固定URL]
『糞尿譚(ふんにょうたん)』 火野葦平が誕生
1907年01月25日~1960年01月24日
北九州市若松区生まれ / 第六回芥川賞を受賞し、『麦と兵隊』、『土と兵隊』や『花と竜』など九州を舞台にした数多くの名作を
からたちの花 北原白秋が誕生
1885年01月25日~1942年11月02日
明治18年~昭和17年
柳川市生まれ / 詩人、歌人、民謡童謡作家で「赤い鳥」の童謡運動に熱中した。「帰去来」の詩碑が故郷に建立されている。
有栖川宮熾仁親王 初代福岡県知事が逝く
1835年03月17日~1895年01月25日
天保6年2月19日 ~明治28年
王政復古の新政府総裁、戊辰戦争では征東軍の大総督。混迷する維新福岡を良く統治する。
2007-01-22 01:13. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
『糞尿譚(ふんにょうたん)』 火野葦平が逝く
1907年01月25日~1960年01月24日
北九州市若松区生まれ / 第六回芥川賞を受賞し、『麦と兵隊』、『土と兵隊』や『花と竜』など九州を舞台にした数多くの名作を残す。
1952(昭和27)年福岡出身43歳の新聞社の広告部員・松本清張が「或る『小倉日記』伝』で芥川賞を受賞した。「自分には文学修業の基礎が無い・・・・」。
そんな時、同じ北九州在住の火野葦平が電報を送る。「芥川賞は作家を殺す恐ろしい賞だ。君は芥川賞とか直木賞とかを意識せず思う通りのものを書いたほうがいい』。忠告通り、まずはじっくり自分の目指す方向を探った。賞の重みに”殺されず”やがて次々と傑作が生まれ出た。(月刊文芸春秋2月号より)
納戸記念陸上記念大会 納戸徳重が誕生
1902年01月24日~1991年
三潴郡城島町生まれ / パリ・オリンピック日本代表をはじめ数々の成績を残した世界的アスリートで多くの選手を育てた。大正 昭和の九州陸上・九州駅伝の生みの親
稲作改良に貢献 林遠里が誕生
1831年01月24日~1906年01月31日
福岡市生まれ / 1883年勧農社を設立「筑前農法」を全国に普及し全国の稲作改良の気運に大きな刺激を与えた。
2007-01-22 01:12. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
日本社会主義の父 堺利彦が逝く
1870年11月25日~1933年01月23日
京都郡豊津町生まれ / 1896年05月06日から西日本新聞社に1年在社した。片山潜、高徳秋水、阿倍磯雄等と社会主義を開拓。
2007-01-22 01:12. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
黒田騒動 栗山大膳が誕生
1591年01月22日~1652年03月02日
大分県下毛郡生まれ / 黒田忠之と筆頭家老栗山大膳、双方安泰の不思議なお家騒動で福岡藩を救った忠臣といわれ盛岡に眠る。
経済学者 向坂逸郎が逝く
1985(昭和60)年1月22日
2007-01-22 01:11. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
秋月藩医緒方春朔は、わが国医療の先覚者の一人である。
天然痘は今や完全に根絶されたが、当時の人々の天然痘に対する恐怖は、現代の我々には想像もつかないほど恐ろしいものであった。寛政2年(1790)予防接種である人痘種痘法をわが国で初めて成功させ、これを全国に広めたのである。これは、エドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功より、6年早い時期であった。この春朔こそが、わが国における種痘の始祖であり、予防接種の先覚者である。
種痘始祖 緒方春朔が逝く
1748年08月18日~1810年01月21日
寛延元年~文化7年
久留米生まれ / ジェンナーの牛痘法の発見より6年早く天然痘予防の為の人痘法を創案した医師。
女性解放運動家 伊藤野枝が誕生
1895年01月21日~1923年09月16日
明治28年~大正12年
福岡市生まれ / 平塚らいてう主宰の「青鞜」の後継者として活動し、アナーキスト大杉栄と共に甘粕大尉に虐殺される。
近代女性俳句の先駆者 杉田久女が逝く
1890年05月30日~1946年01月21日
明治23年~昭和21年
鹿児島市生まれ / 小倉で「ホトトギス派」の閨秀俳人として、大正中期から昭和初期にかけて俳壇に久女旋風を起こした。
2007-01-22 01:11. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
ジャズピアニスト 中村八大が誕生
1931年01月20日~1992年06月10日
昭和6年~平成4年
久留米市出身の作曲家・ジャズピアニスト。1950年代末から1960年にかけて、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」など永六輔とのコンビで数々のヒット曲を出す。
旧制中学明善、早稲田大学高等学院、早稲田大学文学部卒業。学生時代に音二郎の再来と言われる渡辺晋とシックスジョーズで活動、1953年からドラマージョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」で活躍。当時の大衆的ジャズブームの渦中で非常な人気を得た。1950年代末からは作曲家として数々のヒット曲を生み、1959年の「黒い花びら」(作詞・永六輔、歌・水原弘)で第一回日本レコード大賞を受賞。
主な作曲作品 「上を向いて歩こう」(坂本九)、「黒い花びら」(水原弘)、「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「世界の国からこんには」(三波春夫)、「帰路かな」(北島三郎)、「夢で逢いましょう」(坂本スミ子)
2007-01-22 01:09. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
小倉日記 森鴎外が誕生
1862年01月19日~1922年07月09日
文久2年(1862年2月17日)~大正11年
島根県津和野生まれ / 「我をして九州の富人たらしめば」を始め数々の含蓄ある啓発評論を福岡日日新聞に発表する。
北九州の豪商 中原嘉左右が誕生
1831年01月19日~1894年10月21日
天保2年~明治27年
維新の混乱期を脱する地域基盤整備に尽くした。日記は北九州の動向を知る為の貴重な資料。
玄洋社社長 箱田六輔が逝く
1850年05月~1888年01月19日
嘉永3年~明治21年
福岡市生まれ / 徹底した民権論者で性格は豪放で人望厚く将来を期待されたが、国会開設前年に急死した。
2007-01-22 01:09. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
西海の巨儒 安藤省菴が誕生
1622年01月18日~1701年10月20日
柳川市生まれ / 柳川藩の儒学の祖で、中国からの亡命儒者朱舜水を厚く遇し、伊藤東涯は関西の巨儒と評した
2007-01-22 01:08. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
黒田節は健在
1928(昭和3)年に現NHK福岡放送局の前身福岡演奏所が福岡民謡『筑前今様』として全国に紹介し世に出る。この曲を初めてレコードに吹きこんだのが赤坂小梅さん。
一度目は1942(昭和17)年に『黒田武士』として、二度目は戦後1948(昭和23)年に今カラオケで歌われているおなじみの『黒田節』。
黒田節は忘れ去られていると嘆く声が聞かれる中、元日の西日本新聞で全国通信カラオケで配信される民謡全83曲中の第2位と知り驚くと共に安心した。
4月末に赤坂小梅の記録映画が完成するが、監督山本眸古さんを囲む集いを計画している。
黒田節を普及 赤坂小梅が逝去
1906年04月20日~1992年01月17日
明治39年~平成4年
福岡県田川郡川崎町 / 芸者歌手。昭和4年以降、流行歌、端唄、舞踏小唄、民謡をつぎつぎに吹き込み民謡ブームの火付け役になる。「黒田節』『おてもやん』「炭坑節」などがヒット作
2007-01-22 01:07. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
日本の親子100人この素晴らしき仲間
月間文春2月号に標記テーマで福岡ゆかりの先人達が4家族紹介されていた。
団伊玖磨・紀彦~義絶と独立、団家四代
三井合名会社理事長 団琢磨
1858年08月01日~1932年03月05日
安政5年~昭和7年
福岡市中央区生まれ / 明治大正期にかけてわが国の工業化、近代化に尽くした功績大。血盟団員の狙撃を受けて死去。 団伊玖磨の祖父。
緒方竹虎・四十郎~父からもらった英文の手紙
憲法改正を後輩に託す 緒方竹虎
1888年01月30日~1956年01月28日
明治21年~昭和31年
山形市生まれ / 敗戦直後の混乱を収拾し、戦後の保守合同に心血を注いだ玄洋社の流れをくんだ政治家。
杉山茂丸・夢野久作~憂国と文学をつなぐもの
全身献体の快人 杉山茂丸
1864年08月15日~1935年07月19日
元治元年~昭和10年
福岡市天神町生まれ。国士・民間政治家(いわゆる浪人)だが、金融と経済こそ近代国家の基本と言う観点から、伊藤博文、山形有朋、桂太郎などを動かして、近代国家としての日本の方向付けを行なった。死体国有論の茂丸は1935年(昭和10年)のこの日に死去、夫婦で東大に献体されている。
異色の作家 夢野久作
1889年01月04日~1936年03月11日
明治22年~昭和11年
福岡市中央区出身、杉山茂丸の長男で、香椎の杉山農園で探偵、猟奇、童話、伝記、ルポなど多彩な著作を遺す。代表作はドグラ・マグラ。
グリーンファーザー 杉山龍丸
1919年05月26日~1988年09月20日
大正8年~昭和63年
「インドの独立の父はガンジーさん。インドの緑の父(グリーン・ファザー)はスギヤマさん」
杉山茂丸の孫で、夢野久作の長男。杉山龍丸は私財を投げ打ち、インドの砂漠を緑の大地に蘇らせた人物で、インドではグリーンファーザーと尊称されています
檀一雄・文~父にかけられた「呪い」
「火宅の人」 檀一雄
1912年02月03日~1976年01月02日
大正元年~昭和51年
山梨県生まれ / 無頼派と呼ばれながら戦後の文壇にくっきりと足跡を残し、能古島を死のすみかにした直木賞作家。
2007-01-22 01:06. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
35代横綱・双葉山の69連勝を安芸の海がストップ
1939(昭和14)年01月15日35代横綱・双葉山の69連勝を安芸の海がストップ。 名横綱が調子が悪く中村天風 に相談する。飲みなさいと白い粉をもらい飲んだら調子がよくなり、又もらいに行ったそうだ。天風が白い粉が入っているビンをくれたので、これは何ですかと横綱が聞いたら、重曹だよと答えたそうだ。そして「気の持ちようで人間はどうでもなるのだ。常に積極的に生きなさい」と諭されたという話を聞いたが、いつごろの話か分からない。
中村天風(三郎) クンバハカ
1876年07月30日~1968年12月01日
明治9年~昭和43年
東京都北区王子生まれ / 積極的言葉による積極的思考の生き方・心身統一法(ヨガ)を進める哲人。修猷館と玄洋社で学ぶ。1919年05月31日 頭山満の代理として哲人・中村天風が講演、ヨガ普及に旅発つ。
持てる命(魂)を燃やすには、天風の説くクンバハカを下敷きとした腹式呼吸を25回毎日実施することだ。ふくおか未来立志塾では日本人の心身の生活慣習病をなくすため新遊民健康法として普及して行く。
新天町商店街創設者初代社長 原田平五郎画誕生
1901年01月15日~1976年01月08日
明治34年~昭和51年
飯塚市生まれ / おたふくわたを社業に再建。戦後の焼土に新天町商店街建設計画を推進し、公社社長となる。
2007-01-15 01:12. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
最後の博多商人 中牟田喜兵衛が逝く
1891年10月29日~1980年01月14日
明治24年~昭和55年
佐賀生まれ / 1936年天神に岩田屋百科店を創業し、九州一の繁華街天神の夜明けを作る。趣味は博多にわか。
2007-01-15 01:11. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
730(天平2)年1月13日に歌人でも会った太宰師(そつ) 大伴旅人が自邸に咲いた梅を愛でる宴会を催す。
太宰師(そつ) 大伴旅人
665年~731年07月25日
天智4年~天平3年
上流貴族、大納言、歌人。大宰府に約3年間の在任中、神仙思想を有するロマンチックな歌を残し、筑紫歌壇の花を咲かす。
2007-01-15 10:15. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
サンフランシスコ日本人墓地で福岡ゆかりの先人に会う
1月04日サンフランシスコの近郊コルマの日本人墓地に眠る親戚を尋ねたが、入り口にそびえたつ記念碑で久留米市出身のポテト王牛島謹爾を知る。 西日本新聞の聞き書きシリーズの四島一二三は牛島より10年送れて17歳で渡米している。
カリフォルニアのポテトキング 牛島謹爾(ジョージ・シマ)
1864~1926
元治元年~昭和元年
三潴郡鳥飼町(久留米市梅満町)出身
1888(明治21)年12月15日、25歳で渡米。ストックトン市で「シマファンシー」という商品名の馬鈴薯で億万長者になる。ストックトンのサンオーキンデルタカレッジに記念館{シマセンター」がある。在米日本人会初代会長。サンマテオ郡コルマの日本人共同墓地に渋沢栄一子爵が建てた記念碑に「奮い立てよ若き人々よ、祖国のために」と書いてある。中国文学に造詣深く、「別天」と号し漢詩を作った。
一番電車30年 四島一二三
1881年10月14日~1976年11月01日
明治14年~昭和51年
久留米市北野町生まれ / 17歳で渡米し、米国仕込みの起業家として福岡相互銀行(現西日本シティ銀行)を創設する。
2007-01-14 01:10. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
東芝の父・田中久重~からくり儀右衛門~82歳で逝く
きりりと引きし絞った弓、ひょいと矢を放すと見事的中、これぞ江戸時代のロボット弓張り人形。はたまた出てきました茶運び人形、お盆に茶碗を置くとすり足で客の前でお辞儀をし「はいどうぞ」、お茶を飲み、茶碗をお盆に戻すとくるりと向きを変え帰って行くお利口さん。江戸末期のロボットはどこでも大人気。これらロボットの生みの親は久留米の大発明家のからくり儀右衛門であった。
久重は創意工夫と事業拡大だけでなく、天文学・陰陽道の名門土御門家に入門し、時刻、暦、天体についての学び、また京都の広瀬元恭から蘭学を学ぶなど、学問による新知識の吸収にも努めた。
久重は広瀬元恭の蘭学塾で同門であった佐賀藩士佐野常民の推薦によって佐賀藩に仕え、蒸気船、汽車の模型、アームストロング砲などの製作にかかわり、佐賀藩を雄藩にのし上げる手助けをした。また故郷の久留米藩の招きにも応じ、久留米藩製造所長となり、月の前半は佐賀、月の後半は久留米で活躍した。
1873年(明治6年)、75歳の時上京し、明治政府の命により各種電信機器の開発・製造を行い、1875年(明治8年)、銀座に店舗兼工場を創設した。この製造所は養嗣子の2代目久重が継ぎ、芝浦に製作所を造り、1893年(明治26年)に、田中製造所を芝浦製作所と改名し、1939年(昭和14年)には東京芝浦電気株式会社が誕生した。1984年(昭和59年)、東芝に変更された。 1881年(明治14年)1月11日、82歳で没した
東芝の父 田中久重
1799年09月18日~1881年01月11日
久留米市生まれ / からくり儀右衛門。技術大国の基礎を作る。からくり人形から和時計、蒸気船、 電信機までモノつくりに命をかける。
2007-01-11 10:15. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
元寇記念碑「亀山上皇像」を建設した湯地丈雄が65歳で逝く
四十歳の時、福岡警察署長として福岡に赴任する。湯地は「大国難である元寇の舞台となった博多に、記念碑がないのはおかしい」と常々感じていた。
そんな時、長崎で北洋艦隊事件が起こる。その視察・調査のため長崎に赴いた湯地は、国力のなさから日本側が泣き寝入りしたことに唇をかみしめた。頭に浮かんだのは国土を踏みにじられた蒙古襲来の惨禍。
「国防精神を養わなければ、いつか日本は元寇どころではない外患を受けるかもしれない」と帰福して知事に国防大治安論を提唱。
苦労の連続であったが湯地が運動を始めてから十六年、一九〇四(明治三十七)年九月、ついに山崎朝雲作の元寇記念碑が完成した。元寇時に敵国降伏を伊勢神宮に祈願された亀山上皇の銅像(高さ二十一・五㍍)である。
元寇記念碑 湯地丈雄
1847年04月04日~1913年01月10日
弘化4年~大正2年
熊本県生まれ / 第10代福岡県警部福岡所長を辞し、国防大治安論を宣揚し、明治37年に福岡市東公園の亀山上皇像を完成させる。
「明太子の誕生日
1949(昭和24)年1月10日博多中洲の小さな店「ふくや」の店頭に並べられたのが始まりです。
明太子 川原俊夫
1913年~1980年
妻千鶴子と1949年(昭和24年)1月10日に博多中洲の地で明太子を発売する。
「明太子」誕生物語り 対談:平成5年11月 西日本シティー銀行「博多に強くなろう」より
お話:川原 千鶴子 氏(元 株式会社ふくや社長)
聞き手:西島 伊三雄 氏(博多町人文化連盟理事長)
司会・文責:元福岡シティ銀行広報室顧問 土居善胤
川原 博多の名物になってしまってびっくりしていますが、戦前、主人も私も韓国の釜山に住んでいたのが、明太子との縁の始まりですね。私たちの毎日のお惣菜に、キムチと明太子は欠かせませんでしたよ。
西島 で、その明太子はタラコで、スケトウダラの卵ですね。そこらへんがややこしい。
川原 スケトウダラのことを朝鮮語でミヨンテと言いますものね。漢字で明太、メンタイですね。その卵だから明太子でミヨンテコ、メンタイコになったのです。加工して辛子明太子、うちでは“味の明太子”と言っています。全然売れません。(笑)十年ぐらいは全く売れませんでしたね。そこでまたつくっては捨て、つくっては捨てばかりでした。(笑)その頃小学校の末っ子が捨て役で、いつも店員さんといつもこぼしていたそうです。それに当時のことですから、しゃれたガラスケースなどはありません。仕方がないので、金魚鉢をきれいに洗って、その中に明太子をつめて店においていました。
2007-01-11 10:14. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(1) • [固定URL]
東京・両国新国技館が落成
1985(昭和60)年01月09日、東京都墨田区横網で両国国技館落成式が開催され、1954(昭和29)年以来、蔵前国技館で開催されていた大相撲の会場となる。初代両国国技館は1906(明治42)年朝倉郡出身の梅ケ谷藤太郎第15代横綱の骨折りで建設された。
相撲道中興の祖 梅ケ谷藤太郎
1845年03月16~1928年06月15日
朝倉郡生まれ / 第15代横綱。優勝9回、全勝4回、連勝58の好成績を残す。国技館建設などの最大功労者。
先代の両国国技館は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。1906年(明治39年)6月着工、3年後の1909年(明治42年)5月に竣工し、6月02日に開館式が行われた。
大相撲功労者 雲竜型 雲竜久吉
1823年~1891年06月15日
文政5年・1822年9月~明治24年
山門郡大和町生まれ / 30歳で入幕、大関昇進まで負け星8個、幕内優勝6回。39歳で第10代横綱免許。横綱土俵入り雲竜型の創始者。
九州場所誘致 木曽重義
1897年05月31日~1978年05月22日
明治30年~昭和53年
愛媛県生まれ、旧制東筑中学中退。 筑豊をはじめ多くの中小炭鉱の経営を手がけ、九州石炭連盟課長や日本石炭連合会会長などの公職を歴任。大相撲九州場所の誘致に力を尽くした。
2007-01-06 11:14. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
ブリジストン美術館オープン
1952(昭和27)年01月08日に東京・八重洲にブリジストン美術館がオープンする。
東京都中央区京橋にあり、西洋美術、日本近代美術を中心とした私立美術館で財団法人石橋財団が運営している。
ブリヂストンの創業者である実業家石橋正二郎の収集した美術品を展示するため、1952年、京橋のブリヂストンビル内に開館した。石橋は昭和のはじめ頃から日本の近代絵画の収集を始め、西洋美術の収集に本格的に乗り出したのは第二次大戦後のことであった。石橋は、戦前にすでに日本にもたらされていた西洋美術のコレクションを、戦後まとまった形で入手し、1952年の美術館開館までのわずか数年間に日本有数の西洋美術コレクションを形成した。
美術品の世界的コレクター 石橋正二郎
1889年02月25日~1976年09月11日
明治22年~昭和51年
久留米市生まれ / 自動車タイヤの国産化に成功したブリジストンタイヤの創立者。
坂本繁二郎画伯のすすめで、郷土の誇り天才画家青木繁の作品蒐集をはじめたのがきっかけで美術品の世界的コレクターとなる。ブリジストンタイヤ株式会社創立20周年記念の本社屋建設(東京都中央区京橋)に当たり公共事業として美術館をオープンする。
放牧三馬 坂本繁二郎
1882年03月02日~1969年07月14日
明治15年~昭和44年
久留米市生まれ / 同年、同郷の親友青木繁に比し、大器晩成の洋画家。馬、静物に加え能面が主要なモチーフとなる。
海の幸 青木繁
1882年07月13日~1911年03月25日
明治15年~明治44年
久留米生まれ / 享年28歳、同郷の坂本繁二郎と親友で明治画壇の鬼才として名作品を遺した早世の洋画家。
1月08日に誕生したゆかりの先人
新天町商店街 原田平五郎
1901年01月15日~1976年01月08日
明治34年~昭和51年
飯塚市生まれ / おたふくわたを社業に再建。戦後の焼土に新天町商店街建設計画を推進し、公社社長となる
8日に逝ったゆかりの先人
新天町商店街 原田平五郎
1901年01月15日~1976年01月08日
明治34年~昭和51年
2007-01-06 11:12. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
昭和が終わり、平成スタート
18年前の1989(昭和64)年01月07日午前6時33分昭和天皇崩御される。87歳在位62年の歴代最長、皇太子明仁親王が即位。臨時閣議で新元号「平成」と決定。
巡幸 昭和天皇が崩御
1920(大正9)年皇太子時に来福した昭和天皇は、1949(昭和24年)年5月九州大学を始め福岡県内を巡幸。在位62年の歴代天皇最長、87歳8ヶ月で1989(昭和64)年1月07日に崩御された。
東京都中央区 / 1920年皇太子時に来福、1949(昭和24年)年5月九州大学を始め福岡県内を巡幸。歴代天皇最長寿87歳8ヶ月。
石油化学工業の創始者 石田健
1890年01月07日~1968年11月12日
明治23年~昭和43年
久留米市生まれ / 我が国初の三井石油化学工業を設立し、石油化学工業の発展に多大の貢献をする。
2007-01-06 11:11. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
日露戦争で恩義あるセオドア・ルーズベルト大統領逝く
1919(大正8)年01月06日-恩義ある セオドア・ルーズベルト、第25代、第26代アメリカ合衆国大統領が逝去する。1905年には日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。
福岡市出身の金子堅太郎が留学した時の大学時代の友人で新渡戸稲造の「武士道」を読み感銘した親日家であった。
明治憲法起草者 金子堅太郎
1853年03月13日~1942年05月16日
嘉永6年~昭和17年
福岡市中央区鳥飼に誕生し藩校修猷館に学ぶ。黒田藩留学生としてハーバード大学で法律、憲法、国際法を学ぶ。ハーバード大学の同窓生セオドア・ルーズベルト大統領と折衝し、日露戦争終結に貢献。
嘉永6年(1853年)生る。藩学修猷館を出た後、明治4年(1871年)黒田長溥公の援助で団琢磨とともに米国ハーバード大学に留学。帰朝後は伊藤博文を助け、大日本帝国憲法の制定に最も大きな功績を残した。また、ハーバードの学友であったセオドア・ルーズベルトの支援を得て、日露講話に奮迅の活躍をした。九州大学の誘致、八幡製鉄所の設置、さらには「福岡県立英語専修修猷館」再興の大恩人である。
詳細は WEV金子堅太郎 http://shuyu.fku.ed.jp/syoukai/rekishi/kaneko.htm
2007-01-06 11:10. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
1916(大正5)年010月05日、マニラで開かれた東洋庭球選手権大会で大牟田市生まれの熊谷一弥がシングルスで優勝する。
テニス銀メダル 熊谷一弥
1890年09月10日~1968年08月16日
明治23年~昭和43年
大牟田市生まれ / 1920年の第7回アントワープオリンピックでわが国初の銀メダルを獲得したデ杯庭球選手。1913年(大正2年)2月19日、熊谷がプレーしていた慶応大学テニス部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を正式に表明し、熊谷たちは日本で最初に硬式テニスへの挑戦に踏み切った。
2007-01-06 11:08. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
異色の作家 夢野久作
1889年01月04日~1936年03月11日
明治22年~昭和11年
福岡市中央区出身、杉山茂丸の長男で、香椎の杉山農園で探偵、猟奇、童話、伝記、ルポなど多彩な著作を遺す。代表作はドグラ・マグラ。長男の杉山龍丸は、香椎の農園を売って、インドの砂漠を緑化し、グリーファーザーと尊称されている。
燦くる~ず 花村仁八郎
1908年03月30日~1997年01月04日
明治41年~平成9年
嘉穂郡飯塚町生まれ / 1989年05月14日豪華客船ふじ丸でアジア太平洋博に海から参加。野鳥とクルーズを愛した財界の政治部長。金印倶楽部会長として燦くる~ずをこよなく愛し、日本一周の燦くる~ず乗船を薦めるメッセージを遺された。
遊び心 小山ムツコ
1943年01月04日~2000年06月22日
昭和18年~平成12年
福岡市生まれ / 常に新しい生き方に挑戦し、余命6ヶ月を告げられてファイナルステージを考える会の代表として活躍。1990年の燦くる~ず<横浜~博多~香港~博多>と1992年の新船飛鳥での燦くる~ず<横浜~博多~大連~天津・北京~博多>のイベントを企画実施し、現在の豪華客船クルーズのイベントの下地を作った。
仮想大会、盆踊りを始め多種多様のイベントを企画したが、山本七平氏の横浜~香港~博多間の船上講演「日本人とは何か」と北京人民大会堂での「日中国交正常化20周年の夕べ」は圧巻であった。
2007-01-06 11:07. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
1868(明治元)年1月03日戊辰戦争はじまる。
旧幕府側では、幕府歩兵隊、会津藩兵、桑名藩兵などが大坂から京都へ進軍し、薩摩藩・長州藩の軍勢と慶応4年01月03日(1868年01月27日)、京都南郊外の鳥羽と伏見で衝突した。この戦いで薩長軍が圧勝した結果、討幕派が新政府の実権を握り、慶喜を朝敵とした。01月06日、慶喜は軍を捨てて大坂城を脱出、海路で江戸へ逃走した。指揮官を失った旧幕府軍は、抗戦をやめ、各藩へ兵を帰した。
慶喜は上野の寛永寺にて謹慎し、天皇に反抗する意志がないことを示そうとした。しかし、新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍を組織し、東海道・東山道・北陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。
戊辰の役 秋田戦争(7月~9月、秋田県と支援の九州各藩と東北各藩の同盟軍の戦い)の参戦九州各藩は10藩 、延べ6800人(福岡、小倉、佐賀、薩摩、佐土原(宮崎)、平戸、島原)、戦死者は189人(福岡藩29人、小倉藩7人、佐賀藩49人、薩摩藩45人平戸藩16人他)であった。秋田市内の全良寺内の戊辰の役陣没者官修墓地には15才~63才の665霊・503基(秋田、佐賀、薩摩、筑前、庄内、14藩)が祀られている。
戊辰の役参戦者
初代福岡県知事 有栖川宮熾仁親王
1835年03月17日~1895年01月15日
天保6年2月19日~明治28年
王政復古の新政府総裁、戊辰戦争では征東軍の大総督。贋札事件で混迷する維新福岡を良く統治する。
赤十字活動の先駆者 高松凌雲
1836年12月25日~1916年10月12日
天保7年~大正5年
小郡市生まれ / 戊辰の役で敵味方なく治療して赤十字精神を発揮、貧しい人を助ける同愛社を結成した偉大なる医哲。
久留米藩海軍士官 梅野多喜蔵
1841年11月11日~1928年05月08日
天保12年~昭和3年
久留米市東町生まれ / 勝海舟塾などで航海術を修行し、千歳丸仕官として戊辰戦争に従軍。のち筑後地方の近代教育に貢献。
ゆかりの先人
福岡女学院 徳永ヨシ
1895年01月03日~1957年09月02日 明治18年~昭和32年
熊本県八代市生まれ / 校長を25年間務め、キリスト教徒として教育者として敬慕され多大の人間的影響を及ぼした。
2007-01-06 11:05. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
1268(文永5)年01月02日 蒙古の使者が国書を携えて来朝。海外への窓口である福岡は、663(天智2)の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)と1251年~1284年2度にわたる元寇の役、そして1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)と3度の戦争の前線基地となったが、鎌倉時代に起こった国難は、まさに福岡を戦場と化した。ことの起こりは、1268年01月02日である。
元の皇帝クビライが高麗に命令し1268年正月に使者が大宰府へと到着、大宰府の少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)高麗王書状[を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。わが国はこれを黙殺する。ゆかりの先人たちは
国難を救う 北条時宗
1251年06月05日~1284年04月20日
建長3年5月15日~弘安7年4月04日
鎌倉幕府8代執権、国難・元寇の役の総指揮にあたった青年執権で神風で文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)を防いだと言われているが、元の皇帝フビライ・ハーンへの厳しい対応と博多湾に石塁(防塁)を築き、九州各地の御家人に、異国警備役を命じ、再度の襲来に備えた防衛策が功を奏したといえる
蒙古来襲絵詞を遺した 竹崎季長
1246年~1314年
熊本県 / 肥後の国竹崎郷から、文永の役、弘安の役で参戦活躍。教科書で有名な絵巻物を制作、1293年02月09日に完成させる。
九州(肥後)の御家人で、自身の戦功を描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる竹崎季長は、文永の役の時は少弐経資(大宰府)の指揮下で活躍したが、弘安の役では、安達盛宗(泰盛の子)の指揮下のもと、志賀島、壱岐の海戦では敵の軍船に乗り込んで活躍して軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた
元寇防塁を名づけた 中山平次郎
1871年06月03日~1956年4月29日
京都府生まれ
医学博士で考古学者、九州考古学の開祖で鴻臚館が城内にあったことを特定する。「元寇防塁」の呼称の名づけ親。
元寇記念碑を建立 湯地丈雄
1847年04月04日~1913年1月10日
熊本県生まれ
第10代福岡県警部福岡所長を辞し、国防大治安論を宣揚し、明治37年に福岡市東公園の亀山上皇像を完成させる。
亀山上皇像を建立した 山崎朝雲
1867年02月17日~1954年06月04日
明治3年~昭和29年
福岡市博多区生まれ / 彫刻家高村光雲の門下生。1904年(明治37年)福岡市東公園に元寇記念碑・上皇像を建立する。
日本初の新聞写真大将・元帥 杉山元
1880年01月02日~1945年09月12日
北九・小倉北区 / 教育総監、陸軍大臣、参謀総長の陸軍3長官を歴任、1945年09月12日自決、夫人も後を追う。
「火宅の人」 檀一雄
1912年02月03日~1976年01月02日
山梨県生まれ / 無頼派と呼ばれながら戦後の文壇にくっきりと足跡を残し、能古島を死のすみかにした直木賞作家。
2007-01-06 11:02. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]
おめでとうございます。
私たちの福岡は、後漢の光武帝が金印「漢委奴国王」を下賜したといわれる西暦57年の昔から、日本と海外との交流の窓口としての役割を果たして来ました。その福岡には多くの先人たちが新しい出会いを求め、新しい時代を創ってきた脈々とした歴史があります。
前人未踏の少子高齢化時代に突入した今こそ、この地に縁のある先人たちの高い志を学び、その電流を少しでも次世代に伝えていくことが出来ればと願っております。今年は私たちの活動を支える「二〇〇七年の会」の節目の年です。神田紅師匠を先頭に多くの先人の高い志を紹介し、
“人生の質を高める知恵や勇気や遊び心”を学び、育み、伝えて 行ければと汗を流す覚悟です。
新しい出会いに命をかけた唐僧鑑真と遣唐使達
日本と海外との交流のスタートは57年の後漢の光武帝から下賜された金印に始まる。700年後、遣唐副使大伴古麻呂らが唐僧鑑真を伴って、753(天平勝宝5年)12月26日に大宰府に到着、754(天平勝宝6)年1月01日に平城京に帰る。
戒壇院 鑑真
688年~763年06月25日
持統天皇2年 - 天平宝字7年5月06日
中国揚子江陽県生まれ 奈良時代の帰化僧5回の失敗を乗り越え、753年12月26日に太宰府に到着。帰化後初の授戒を戒壇院で行なう。唐招提寺建立。
菅原道真 天神さま
845年~903年02月25日
901年突如太宰権師に左遷され、02月01日に都を出、59歳で没す。学問の神として全国に祭られている。630(舒明2)年08月05日に第一回遣唐使犬上御田鋤が派遣され、264年後の894年には遣唐大使に任命されるが、日本独自の文化を育てる 為・唐が衰退し
てきたことを理由に遣唐使の廃止を訴え、採用される。264年間に遣唐使は19回任命されたが、実際に渡海したのは15回である。
小野篁 平安時代前期の公家、詩人、最後の遣唐使
802年~852年
延暦21~仁寿2年
832(天長9)年太宰少弐になったが、淳和天皇は才を惜しんで赴任を許さなかった。834(承和元)年に遣唐副使に任ぜられ836(承和3)年大宰府に織、7月02日博多津を出帆したが失敗。翌年も失敗し、2年後3回目の時に大使藤原常嗣との諍いで乗船を拒否し、『西道謡』を作って遣唐事業を風刺。ために嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐に配流。2年後に許される。『経国集』などに若干の詩、『古今和歌集』に6首がある。
最澄 伝教大師
767年~822年06年04
神護景雲元~弘仁13
803年3月遣唐使一行と共に難波を出発するが船が難破、一年三ヶ月太宰府の竈門山寺(かまどさん)に寄住していたが、渡海の無事を祈り薬師象4体を作り、宇佐宮、香春神社も参詣す。804年入唐に成功、805年唐より帰国し、806年に天台宗を開く。著書「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に有名な言葉「一隅を照らすものは国宝なり」を残している。(「照干一隅」または「一燈照隅」)
明治時代 文化交流を通し日本近代化を牽引した新劇の祖川上音二郎と貞奴
新劇の祖 川上音二郎
1864年01月01日~1911年11月11日
福岡市博多区生まれ / オペッケペ節で人気を得、欧米で興行し、近代劇運動の先駆けとなる。
新劇の祖と呼ばれる川上音二郎は、文久年・元治元年(1864年)1月01日に博多対馬小路藍問屋の長男として生まれる。
近代女優第1号 川上貞奴
1871年07月18日~1946年12月07日
(明治4年~昭和21年)東京都日本橋生まれ
日本一の芸妓から川上音二郎の妻になり、明治昭和の女優として活躍。1912(大正元)年10月16日から7日間、博多の明治座で夫音二郎の追善興行を開催する。1904年1月02日に報知新聞が俳優・川上貞奴の写真を掲載。日本初の新聞写真
「伝えたい福岡スピリッツ!川上音二郎の志」神田 紅
芸者・貞奴は、伊藤博文が最初のパトロンで、馬術に水泳、玉突きに柔道をたしなむ名妓。売れっ子芸者貞奴とオッペケペー節で一世を風靡する音二郎との東京での出会いからはじまった紅講談。
今からさかのぼること約100年前。福岡から、東京、アメリカ、ヨーロッパ・パリ万博と活躍した二人。日本初の女優貞と新派劇の基礎を作った音二郎の生き様を、妻の貞奴を主役に、粋な江戸弁と講談のリズムに乗せて、集まった新遊民たちを魅了しました。
博多者らしい豪放らい落、憎めない性格と近代演劇で成功をおさめた音二郎。アメリカ巡業で大成功を収め、花の都パリでオッペケペーを唄う川上音二郎一座。看板女優「マダム貞奴」の名も国際的となり、二人で夢を築いていくのです。
総額12円(今の12億円)で大阪に帝国座という自分の劇場を立てた二人。夢の桧舞台、劇団員全員で合唱するのは、あのオッペケペー節。
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー
権利 幸福 嫌ひな人に
自由湯をば 飲ませたい
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー
お堅い裃(かみしも) 角取れて
マンテルズボンに 人力車
いきな束髪 ボンネット
淑女に紳士の いでたちで
うわべの飾りは 良けれども
政治の思想が 欠乏だ
天地の真理が わからない
心に自由の 種を蒔け
オッペケペ オッペケペ
オッペケペッポー ペッポッポー
明治44年11月11日、舞台の合唱に見守られ、担架に横たわる音二郎は息を引き取るのです。
自作の現代オッペケペー節も披露した紅師匠。満場の拍手の中、新遊民記念講談は名調子で私たちの心を打ったのでした。
ゆかりの先人たち
- 西南学院創立者C・Kドージャー
- 国宝平原遺跡銅鏡を発見 原田大六
- 桧原桜 進藤一馬
- 洋画檀の鬼才 青柳喜兵衛
- 新劇の祖 川上音二郎
- 箱崎党 筑紫豊
- クラウンレコード創立 有田一寿
- 太閤町割り 豊臣秀吉
2007-01-01 10:57. [ 先人紹介&エピソード ] コメント(0) • [固定URL]