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運営:福岡スピリッツプロジェクト(iSEN、ふくおか新遊民倶楽部)

過去記事

八頭良一 (やずりょういち)  飛行機発明の先駆者

1878年06月30日~1908年10月16日
明治11年~明治41年

豊前市黒土町 / 1901年に「飛翔理論」を脱稿、森鴎外が「天馬行空」の書を遺族に贈った。自動算盤や早繰辞書なども発明。旧制豊津中学(現豊津高校)を3年で中退。鳥類飛翔の研究をするため大阪へ。

1901年(明治31年)に飛行機研究のための『飛翔理論』を脱稿、当時の小倉第12師団軍医部長森林太郎(鴎外)の紹介で東大理学部の研究生になる。井上馨、鮎川義介らの援助で東京市小石川区に製作工場を建設し試作指導に当たる。しかし過労がたたり研究半ばにして結核で死去。のち森鴎外が『天馬行空』の書を遺族に贈った。死後2年日本最初の飛行は陸軍の日野、徳川両大尉によって成功した。主要な発明に自動算盤や早繰辞書などがある。

村山長一  九州テニス協会を設立

1910年08月12日~1981年06月29日
明治33年~昭和56年

佐賀市生まれ / 現在の九州テニス界の基盤を創った九大医学部第一外科局長。旧制佐賀中、第五高等学校を経て九州大学医学部を1925年(大正4年)卒業。

九州テニス協会の基盤をつくる。プレーヤーとしても活躍、1929年から2年連続、全九州選手権ダブルスに優勝。1930年福岡市平尾に福岡市最初のローンテニスクラブの看板を掲げた。翌年九大医学部第一外科局長、同講師。1939年池田市池田回生病院長に転じ、以後は関西地区のテニス会で活躍。関西テニス協会会長、日本テニス協会顧問。(福岡県百科辞典・西日本新聞発行参考)

林芙美子  放浪記~秋が来たんだ

1903年12月31日~1951年06月28日
明治36年~昭和26年

北九州市門司区生まれ / 小説家。故郷喪失者の林文学は過酷な実生活に根ざしながらも詩情に富んでいる。

1928年(昭和3年)『女人芸術』に『秋が来たんだ』(副題『放浪気』)を連載。この刻苦の生活をつづった作品は、北九州の小学校の思い出から書き出され、久留米、門司、戸畑、折尾を転々としたことや直方の町、遠賀川の風景描写もある。

故郷喪失者の林文学は過酷な実生活に根ざしながらも詩情に富身、第2次大戦中はペン部隊として3度従軍したり、激しい文学活動を行った。(福岡県百科辞典・西日本新聞発行参考)

ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller) 奇跡の人

1880年6月27日~1968年6月01日

アメリカ出身の教育者、社会福祉事業家。三重苦の人として初めて学校教育を受け、サリバン女史の助力によって各地で公演。三度来日し、昭和12年(1927年)と昭和23年(1948年)に来福する。昭和12年5月の来福時には福岡女学院や西南学院大学を訪問する。昭和23年の時には主宰者は小学生として沿道で迎えたことを覚えている。

山川健次郎  九大初代総長

1854年07月17日~1931年06月26日
安政4年~昭和6年

会津若松生まれ / わが国最初の理学博士学位を授与。東京帝国大学総長のあと1907年九州工大前身の明治専門学校総裁、1911年九州帝国大学総長を歴任。

後再び東京帝国大学と京都帝国大学の総長を兼任し、枢密顧問官を歴任。男爵。特に私立明治専門学校の創設に尽力し、教育に対して高い理想を持った明治後期の偉大な教育者であり、物理学者である。

安川第五郎 東京オリンピック組織委員会会長

1886年06月02日~1976年06月25日
明治19年~昭和51年

遠賀郡芦屋生まれの実業家 / 九州体育協会の初代会長をはじめ多彩な財界活動を展開。

実業家安川敬一郎の五男。修猷館、一高安川を経て、東京帝国大学工科大学を卒業。1915年(大正4年)北九州市八幡西区に安川電機製作所を創立。後株式会社に改組して社長、会長に就任。団体職を歴任、九州体育協会初代会長を務める。戦後九州電力の相談役,会長に就任。九州経済調査協会長,九州・山口経済連合会会長など多彩な財界活動をし、晩年は日本原子力研究所理事長、日本原子力発電初代社長として原子力の平和利用に尽くす。1964年の東京オリンピック組織委員会会長。1970年勲一等旭日大綬章を受賞。没後正三位に叙せられた。

福沢桃介  電力王

1868年06月25日~1938年02月15日
明治元年~昭和13年

埼玉県吉見町生まれ / 福沢諭吉の娘婿で、松永安左衛門と福岡九州の電力供給と市内電車の創設に貢献する。

美空ひばり   最後の舞台

1937年05月29日~1989年06月24日
昭和12年~平成元年

横浜市生まれ / 録音した歌1500曲に及んだ国民歌手の最後は1989年02月07日北九州市厚生年金会館の昼夜公演であった。

平岡浩太郎 玄洋社初代社長

1851年06月23日~1906年10月24日
嘉永4年~明治39年

福岡市中央区生まれ / 1881年に玄洋社を設立初代社長、.辞任後実業家を志し炭坑経営で資産をなす。代議士当選六回。

1878年(明治10年)西南戦争に呼応する福岡の変に加わり、単身西郷軍に合流、懲役1年の刑を受ける。出獄し民権運動に投じて、向陽社・玄洋社社長を歴任。赤池。豊国炭鉱などを経営して成功、その豊富な資産で玄洋社の対外活動を支えたといわれる。(福岡県百科辞典・西日本新聞発行参考)

七回忌を迎えた新遊民・小山ムツコさん(ファイナルステージを考える会創設者)

今日、福岡市天神町の福岡国際ホールで恒例の「新遊民の集い」が18時から開催される。「中村天風 心を鍛える言葉」の著者岬龍一郎氏が「積極的言葉で心を鍛錬し、あなたの人生を一変させよう」を語る。小山さんを偲んで講師を囲んで交流会も開催する。

詳細は新遊民の集いをご覧ください。

小山ムツコ  死にがい

1943年01月04日~2000年06月22日
昭和18年~平成12年

福岡市生まれ / 常に新しい生き方に挑戦し、余命6ヶ月を告げられてファイナルステージを考える会の代表として活躍。

知的で元気で遊び心のある人生をモットーとする故人は、 RKBアナウンサー、フリーアナウンサー、西日本コミュニケーションカレッジ代表、有限会社「エムアート」代表、香蘭女子短期大学・麻生福岡短期大学講師、「ふじ丸」「飛鳥」燦くる~ずイベントプロデューサー、 市博物館アンティークオルゴール展プロデュース、響きあう食卓展、ファイナルステージを考える会代表、 はかた夢松原事務局長、篤志献体九州白菊会副理事長、傾聴力養成講座創設者、「余命半年から読む本」著者ほかと幅広く活動。余命6ヶ月(末期がん)と告げられて7年余、自分らしく生き、納得の死を迎える。

楢木博 「快適環境」の創造を目指す

福岡市に本社を持つ空研工業株式会社の創業者である。金印倶楽部の法人会員であられたが、既に亡くなられてることを本日付け西日本新聞朝刊で知る。

空調用冷却塔の国内市場で50%近いシェアーを誇る空調設備のリーディングカンパニーの創業者である。13日にお別れ式があった国産冷凍車を日本で始めて走らせた富永シヅさんの福岡運輸が今年50周年だが、空研工業も奇しくも50周年である。

また冷凍車は米軍の要請を「いつの日か、日本中に冷凍庫で生鮮食料品を運ぶ時代がやって来る」との閃きで受け入れたのがスタートだが、空拳工業の創業も楢木さんが、戦後間もないころ、春日原の米軍キャンプでかまぼこ形の兵舎にも冷房が入っているのに驚き、やがて日本にも「空調の時代がやってくる」と予感したことが原点だそうだ。

先人楢木博さんの明日を拓く福岡スピリッツをぜひ掘り起こしたい。情報のご提供をよろしく。

今日は冷蔵庫の日

空研工業の広告はグッドタイミングである。日本電気工業会家電部が、食中毒が多くなる夏至の日にと1985年(昭和60年)に制定している。

冷蔵庫の歴史

  • 日本書紀(仁徳紀62年)の「氷室」は氷で食物を冷やしていた。
  • 1887年(明治10年)大阪で氷を造る。
  • 1903年(明治36年)東京の魚河岸で氷を用いた冷蔵庫を使う。
  • 第5回国内勧業博覧で1853年アメリカのゴーグ博士が発明した冷媒としてアンモニアを使用した現在冷蔵庫の原型が展示される。
  • 1908年(明治41年)東京・京橋の岩谷商会がアメリカから輸入し、「二十世紀冷蔵庫」として販売。
  • 1921年(大正10年)国産第1号を東京芝浦製作所(現東芝)が試作。
  • 1930年(昭和5年) 東芝と日立が家庭用を製作。販売価格720円(住宅一軒の値段)でほとんど業務用として使用される。
  • 1953年(昭和28年) 家庭用小型冷蔵庫販売 8万円(サラリーマン平均給与の10倍)

以上は「日本初めて話題辞典」(編者 富田仁・ぎょうせい発行)と「今日はどんな日?」(著者・近藤道郎、発行株展望社)で調べる。

藤田哲也 竜巻博士

1920年~1998年11月19日

北九州市小倉南区生まれ / 1953年シカゴ大学に招かれ、「ドクタートルネード」と称せられる竜巻の世界的権威になり、航空安全にも寄与したが、北九州市に顕彰会がある、来年の立志塾で取り組もうと準備にかかっているが、ふっと浮羽町の英雄・宇宙飛行士鬼塚氏のことが頭をよぎった。

「1986年1月28日、その予期せぬ悲劇は起こった。米東部標準時間午前11時39分、轟音とともにケネディ宇宙センター39B発射台を離れたミッション51L「チャレンジャー」は72秒後に突然として紅蓮の炎に包まれた。この瞬間、最もアメリカ的な側面を代表する宇宙飛行士7人の尊い生命が失われた・・・・・その男の名を『エリソン・S・オニヅカ』という。エリソン・オニヅカの曽祖父は浮羽町の出身で名をイチヘイといった。エリソンは、1983年に妻や娘たちと母を連れて浮羽町にある鬼塚家代々のお墓参りへ訪れた。浮羽町では、エリソンを郷土の英雄として今でも語り継がれている。」と町では紹介し、

「宇宙で初めて箸を使い、すしを食べた男」と商工会議所は紹介している。

原志免太郎 生涯一医者

1882年10月04日~1991年06月18日
明治15年~平成3年

福岡市中央区生まれ / 百歳で『新しい灸学』を出版し百四歳まで聴診器を持ち、「男性長寿日本一」として百八歳で逝去す。

祝部至善 福岡風俗研究会

1882年08月01日~1974年06月18日
明治15年~昭和49年

福岡市生まれ / 抜群の記憶力と精緻な筆致で独自の明治期博多風俗画を開拓。東京国立博物館所蔵。

日高信六郎 モンブラン初登頂

1893年04月10日~1976年06月18日
神奈川県生まれ / 修猷館時代に日本山岳会に入会。1921年夏日本人で欧州アルプスの最高峰に初登頂したイタリア大使。

豊島与志雄 レミゼラブル

1890年06月18日~1955年06月18日

朝倉市生まれ / 大正・昭和の小説家、フランス文学者、評論家で「世界文学全集」第1回配本『レ・ミゼラブル』は、大反響を呼んだ

杉山茂丸の俗戦国策に曰く「・・・いわんや西郷、高杉等を援け手擁護したる筑前勤皇先輩(加藤司書や平野國臣)の死の如きは、実に同情に耐えぬのである。即ち尊皇攘夷の醸造元は水戸であって、之が元売捌(さばき)所は筑前であった。そこに居候に来ていた西郷、高杉の如き自己の郷里が反論の一致を欠いていた時ゆえ、この尊王攘夷論という当世の要諦(要諦)を筑前の先輩に教わったので、両人は各々の膝を打って起(た)ちこの尊王攘夷論を以って、藩論の一致を促す絶好の策なりとして、その旗印を各郷藩に翻したのである。それがズドンと当たって藩論の一致隣、薩長連合となってアノ大繁昌をなしたので、水戸も筑前も、薩長藩閥の鳶(とび)に尊皇攘夷という油揚げを浚(さら)われたと同じ事である。」

松永安佐エ門 電力の鬼

1875年12月01日~1971年06月16日

長崎県壱岐郡生まれ / 大正、昭和にかけて西部合同ガス(現西部ガス)の初代社長や九州、近畿、中部に勢力を持つ東邦電力の社長を勤め、博多商業会議所会頭、国会議員で活躍する。自主独立の福沢精神で現在の九電力体制を発足。茶道の四天王で耳庵と号し、福岡市美に美術コレクションを寄付。

*来年2月23日の新遊民の集いで神田紅塾頭に語ってもらいたい。

雲竜久吉  雲竜型

1823年~1891年06月15日
文政6年~明治23年

山門郡大和町生まれ / 30歳で入幕、大関昇進まで負け星8個、幕内優勝6回。39歳で第10代横綱免許、43歳で引退。故郷柳川立花家のお抱え力士。横綱土俵入り雲竜型の創始者。

梅ケ谷藤太郎  相撲道中興の祖

1845年02月~1928年06月15日
弘化2年~昭和3年

朝倉郡生まれ /1874年入幕、1879年大関、1884年 第15代横綱免許。幕内生活11年20場所中の負け星はわずか6個。優勝9回、全勝4回、連勝58の好成績を残す。国技館建設など明治・大正期に相撲振興に尽くした最大功労者。

※3月に発足した朝倉市が7月の市報で「ふるさと人物誌」でゆかりの著名人として江戸時代に天然痘の予防に尽力した緒方春朔と共に紹介される。

来福中のライターD氏はかなりな琵琶の語り手と聞く。各地の偉人をご当地ソングとして語っており、今年は吉田松陰を語るそうである。福岡の先人を誰か語りたいと相談を受け、西郷隆盛より人間的な頭山満が候補に上がる。

家族主義、地域主義、アジア主義、右翼の大物、人気投票日本一、孫文、ビハリーボース、人間力、快人・・・父親杉山茂丸と50年来の無二の友人を夢野久作は「近世快人伝」で頭山翁の人物スケールを活写しているが、私たちが自慢できる頭山像を語ってもらいたい。

一年後を期待したい。

頭山満 玄洋社創始者

1855年04月12日~1944年10月05日

福岡市早良区生まれ / 男装の女医高場乱の立志塾に学び、自由民権運動から政治結社玄洋社を結成し、孫文と交流を持った無位無官の在野の頭領。

藤原書店(03-5272-030)より安場保和伝(1,5880円)が出版される。編者は孫の安場安吉氏で執筆者は花立三郎元熊代教授や哲学者鶴見俊輔ら10人。

安場保和 九州鉄道を敷設

1835年05月14日~1899年05月23日

熊本藩士の家に生まれ、横井小楠に学び、維新政府で大蔵省租税権頭を勤め、杉山茂丸の画策で、1886年02月福岡県令となり、在任6年6ヶ月、九州鉄道の敷設に功績を残す。

郭沫若 『屈原』の作者

1892年11月16日 ~1978年06月12日
明治25年~昭和53年

中国四川省生まれ / 九大に学び、日中友好、国交回復に大きな役割を果たす。金印公園に詩碑が建てられている。

豊臣秀吉 太閤町割り

1536年~1598年08月18日
天文5~慶長3

1587年06月箱崎大茶会の後、06月11日に博多の町の復興を命じ、七堂七番七流と言われる太閤町割を行い商工業の振興を計る。

天下統一者。1587年6月07日、島津征伐の帰りに大宰府から博多へ、筥崎宮を本営とする。九州諸大名の領地割を行い、箱崎松原で連日千利休や津田宗及ら茶人による茶会が催され、神屋宗湛や島井宗室らは方の豪商も招かれた。06月11日に博多の町の復興を命じ、七堂七番七流と言われる太閤町割を行い、楽市楽座の制も発して商工業の振興を計る。

6月19日には「バテレン追放令」をこの地で発してキリスト教弾圧の第一歩を踏み出した。

中村八大 ジャズピアニスト

1931年01月20日~1992年06月10日
昭和6年~平成4年

久留米市出身の作曲家・ジャズピアニスト。1950年代末から1960年にかけて、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」など永六輔とのコンビで数々のヒット曲を出す。

旧制中学明善、早稲田大学高等学院、早稲田大学文学部卒業。学生時代に音二郎の再来と言われる渡辺晋とシックスジョーズで活動、1953年からドラマージョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」で活躍。当時の大衆的ジャズブームの渦中で非常な人気を得た。1950年代末からは作曲家として数々のヒット曲を生み、1959年の「黒い花びら」(作詞・永六輔、歌・水原弘)で第一回日本レコード大賞を受賞。

主な作曲作品 「上を向いて歩こう」(坂本九)、「黒い花びら」(水原弘)、「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「世界の国からこんには」(三波春夫)、「帰路かな」(北島三郎)、「夢で逢いましょう」(坂本スミ子)

天智天皇 38代天皇

626年~671年12月03日
推古天皇35年~天智天皇10年

今日は、日本人が始めて時計をつくった日「時の記念日」

天智天皇が671年6月10日(旧暦4月25日)漏剋(ろうこく)・水時計を新しき台に置き、鐘鼓を打って時を知らせた。

661年母斉明天皇を擁し、朝倉宮に本営を置き、百済支援の戦いの指揮をとる。母のために誓願して観世音寺を建てる。

645年(大化元年)蘇我氏を滅ぼし、大化の改新の諸政策を立案・遂行に当たる。百済遺臣鬼室福信の救援要請に応じ、661年斉明天皇を擁し、博多港(娜大津)より朝倉宮(朝倉郡朝倉町山田)を本営とする。天皇が朝倉宮で崩じると百済支援の指揮をとる。白村江(はくすきのえ)の敗戦後、664年対馬、壱岐、筑紫に防人・烽(のろし)を置き、筑紫に水城を築かせ、翌年大野・椽(さい)両城を築城させた。

松居冷忍 映画宣伝マン

1898年11月04日~1979年06月09日
明治31年~昭和54年

福岡市中央区春吉生まれ /昭和初期から日中戦争が始まる1937年(昭和12年)ごろまで映画が最も華やかな時代、現在のように映画会社が宣伝を受け持つことが一切ないなく、全て興行サイドで行われた。「福岡に松居あり」と全国の映画業界にその名を知られた中洲の寿座の宣伝マン。

落石栄吉 祇園院栄空山笠居士

1898年09月28日~1978年05月08日
明治31年~昭和53年

福岡市生まれ / 戦後博多祇園山笠復興に取り組み、博多町人文化の保存に多々貢献する。マスコミが「山笠博士」と呼んだ落石さんの戒名は「祇園院栄空山笠(さんりゅう)居士」。

今日の西日本新聞朝刊聞き書きシリーズの「おいしょ!山笠」で元博多祇園山笠振興会会長石橋清助氏が詳しく紹介されておられる。

中対馬(つま)小路(しょうじ)(現古門戸(こもんど)町(まち))で料亭「やま利」を経営。著書「博多祇園山笠史談」(昭和36年)「博多復興史」で戦後の博多の復興を紹介する。「空襲で中止になった昭和20年の一番山笠が大黒流で、中対馬小路が当番町だったから」と言う使命感から大黒流の落石さんは博多祇園山笠振興会の初代会長を務める。

富永シヅ

1909年1月18日~2006年5月23日
明治42年~平成18年

長崎県五島出身、1958年(昭和33年)日本で初めて国産の冷凍車を走らせ、日本のコールドチェーンの扉を開いた福岡運輸㈱の創業者。

5月23日97歳で逝去。13日13時より積善社福岡斎場でお別れ会が行われるが、会場入り口に国産「矢野式冷凍車」第一号の複製車が展示される。

今年50周年を迎える福岡運輸が、日産ディーゼルと日本の現存する一番古い車(福岡市博物館に展示)をつくった矢野特殊自動車の協力で製作中で、お別れ会に展示出来るよう間に合わせる。

小島与一

1886年08月17日~1970年06月06日
明治19年~昭和45年

福岡市博多区生まれ / 明治から昭和にかけ、第一人者として活躍。火野葦平の小説「馬賊芸者」のモデルになるなど逸話に富む博多人形師。

北条時宗

1251年06月05日~1284年04月20日
建長3年5月15日~弘安7年4月04日

鎌倉幕府8代執権、国難・元寇の役の総指揮にあたった青年執権で神風で文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)を防いだと言われているが、元の皇帝フビライ・ハーンへの厳しい対応と博多湾に石塁(防塁)を築き、九州各地の御家人に、異国警備役を命じ、再度の襲来に備えた防衛策が功を奏したといえる。

蒙古の第二次侵攻である弘安の役では、1281年6月06日元軍の東路軍主力で対馬も壱岐も博多湾も埋め尽くされる。博多湾各所で上陸を試みるが撃退され、志賀島、能古島周辺へ碇泊中、日本軍の夜襲をうける。軍船4千4百艘、兵士14万人の元軍は攻めあぐね、本土上陸をあきらめ平戸付近に1か月ほど留まる。8月23日北九州を襲った大型台風のため元軍は壊滅的打撃を受け、我が国の勝利に終わった。

九州(肥後)の御家人で、自身の戦功を描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる竹崎季長は、文永の役の時は少弐経資(大宰府)の指揮下で活躍したが、弘安の役では、安達盛宗(泰盛の子)の指揮下のもと、志賀島、壱岐の海戦では敵の軍船に乗り込んで活躍して軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。

3日飯塚市で九州知事会議が開催され、知事等が来春に一般公開される伊藤伝右衛門の旧邸宅(同市幸袋)を視察し、炭鉱王の栄華におもいをはせた。ふくおか未来立志塾では、9月19日NTT夢天神での神田紅独演会で、標記講談を昼夜公演する準備を進めている。

山崎朝雲 亀山上皇像を建立した

1867年02月17日~1954年06月04日
明治3年~昭和29年

福岡市博多区生まれ / 彫刻家高村光雲の門下生。1904年(明治37年)福岡市東公園に元寇記念碑・上皇像を建立する。

最澄 伝教大師

767年~822年06年04
神護景雲元~弘仁13

803年3月遣唐使一行と共に難波を出発するが船が難破、一年三ヶ月太宰府の竈門山寺(かまどさん)に寄住していたが、渡海の無事を祈り薬師象4体を作り、宇佐宮、香春神社も参詣す。804年入唐に成功、805年唐より帰国し、806年に天台宗を開く。著書「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に有名な言葉「一隅を照らすものは国宝なり」を残している。(「照干一隅」または「一燈照隅」)

中村研一記念美術館の看板が今日から(3日~5日)一般公開

宗像出身の洋画家中村研一(1895年05月14日~1967年08月28日)の東京・小金井市の自宅内の美術館が4月に市立美術館に生まれ変わり、外された玄関の看板を宗像市原町にある研一の生家美術館に寄贈。今日から3~5日の開館日に一般公開される。 

生家美術館 毎月第一日曜日を鋏む3日間が開館日。今月は3~5日の午前10時~午後4時。入場無料。電話0940-36-7632

中山平次郎

1871年06月03日~1956年04月29日
明治4年~昭和31年

九州考古学の開祖
京都府生まれ / 医学博士で考古学者、鴻臚館が城内にあったことを特定する。「元寇防塁」の呼称の名づけ親。

北原白秋

1885年01月25日~1942年11月02日
明治18年~昭和17年

1902年(明治35年)の6月03日付け福日新聞(現西日本新聞)に伝習館中学4年生の北原白秋が「虹」1首を最初の作品として発表。

安川第五郎

1886年06月02日~1976年06月25日
明治19年~昭和51年

遠賀郡芦屋生まれの実業家 / 九州体育協会の初代会長をはじめ多彩な財界活動を展開。

実業家安川敬一郎の五男。修猷館、一高安川を経て、東京帝国大学工科大学を卒業。1915年(大正4年)北九州市八幡西区に安川電機製作所を創立。後株式会社に改組して社長、会長に就任。団体職を歴任、九州体育協会初代会長を務める。戦後九州電力の相談役,会長に就任。九州経済調査協会長,九州・山口経済連合会会長など多彩な財界活動をし、晩年は日本原子力研究所理事長、日本原子力発電初代社長として原子力の平和利用に尽くす。1964年の東京オリンピック組織委員会会長。1970年勲一等旭日大綬章を受賞。没後正三位に叙せられた。

中村ハル

1884年06月01日~1971年09月02日
明治9年~昭和41年

福岡市早良区生まれ / 努力の上に花が咲くを座右の銘とし、64歳から中村学園創立に取り組み、食を通して人を育む。

ふくおか先人金印記念館 » 中村ハル 努力の上に花が咲く

マリリンモンロー 

1926年06月01日~1962年08月05日
昭和元年~昭和37年

1954年(昭和29年)2月08日、ジョー・ディマジオと新婚旅行で来福。

ふくおか未来立志塾の塾頭神田紅師匠は、「第二回福岡スピリッツを語る 独演会」を2004年8月20日NTT夢天神ホールで開催した。多彩な世界を創り出した夢野久作「名君忠之」を語った後、来福50周年記念「帰ってきたマリリン・モンロー」を演じ、万雷の拍手を得た。神田師匠への花束が贈呈の際に、50年前1954年の2月10日の朝刊に掲載されたロイヤルで食事中のモンローの写真を撮った記者・久保さんから当時の写真が贈呈された。その写真は当日のプログラムに掲載された文章と共に掲載されていただろう。

ハリウッドの人気女優 マリリン・モンロー来日 ~東中洲にモンロー旋風、 ディマジオ必死で人払い~

 1954年2月01日午後5時35分、パン・アメリカン機で羽田に到着、そして8日午後7時半に板付着、野球選手のジョー・ディマジオと女優マリリン・モンロー夫妻、レフティ・オドウル監督ら11人が福岡入りした。一行は、セ・リーグの招待で来日。モンローは飛行機から降りるとすぐ、金髪を振り乱しながら愛嬌を振りまいた。

 宿泊先の東中洲の福岡市国際ホテルは、9日朝から十重二十重の人垣。整理のためMPも出動、福岡警察局のおまわりさんも駆けつける騒ぎとなった。

 午後4時、金髪にベレー帽のモンローが2階窓からお目見え、カーネーションの花びらを振りまき、愛嬌100%の挨拶にモンロー旋風もやっとおさまった。

 その後、ロイヤルベーカリーへお忍びで姿を見せ夕食。ここでもまたたく間に数百名の人垣が店の前を埋め、ディマジオの必死の人払いでやっと車に乗り込む始末だった。