未来への羅針盤・国宝『金印』

金印

 太古から大陸分化交流の玄関口として栄えた福岡市は「奴」の国以来2千年の歴史を持っています。
その奴国に西暦57年に後漢の光武帝から贈られたのが「漢委奴国王」(「かんのわのなのこくおう」)と刻まれた国宝「金印」 です。邪馬台国時代よりも約二百年も前のことですが、今でも福岡市博物館で歴史とロマンを秘めた永遠の輝きを見せています。
金印は歴史と文明文化交流のシンボルであり、国際友好平和の証でもあり、永遠に輝く姿は、「生命」そのものの象徴ともいえます。

『金印』の七不思議

一七八四(天明四)年二月二十三日に志賀島で見つかった金印(国宝)は、西暦五十七年、中国(後漢)の光武帝が日本の王様にプレゼントしたものだが、その辺の事情は調べれば調べるほど謎とミステリーに包まれ、今でも学者や研究者を悩ませ続ける。以下金印をめぐる七不思議。
(一)誰が見つけたのか
黒田藩の記録では「百姓の甚兵衛が見つけた」ということになっているが、志賀島ではその時代、甚兵衛という人物が実在した記録はない。では誰が?
(二)志賀島のどこで見つかったのか
島には金印公園があり、そこからといわれるが、疑問。福岡市教育委員会はこれまで金印公園はもちろん、全島を発掘調査したが、それらしい所さえわからないままだ。
(三)「埋め方」がおかしい
黒田藩の記録では、金印は大きな石の下にあったというが、ほかには何もなく金印だけだった。ふつう、金印ほどの価値のあるものだったら、王様の死体を入れた館の中に刀や鏡などの宝ものと一緒に埋められるのが当然なのに、金印一個だけが石の下に?あまりにも不自然だ。
(四)誰がもらったのか
一般に「奴国(なこく)王」といわれるが本当?奴国は今の春日市にあった。志賀島とは遠く二十キロも離れており、島が奴国の領土だったとは思えない。では…。
(五)金印の文字をどう読む
印面には『漢委奴国王』と彫られた五文字がある。『漢』は後漢のこと、最後の『国王』はそのまま読めるが、まん中の『委奴』をどう読むか、学問上の論争が続く。定説では『委奴』を委(わ)の奴(な)と分けて読ませ、委=倭(わ)=日本の意味だから、「日本の奴」、つまり奴国王が金印をもらったとする。しかし、分けずに読むべきだとする説も根強く、委奴国だとすると、その所在地、読み方も諸説ふんぷん。軽く十を超える。所在地としては熊本、宮崎、北海道、沖縄にも及ぶ。このうち有力視されるのは「いと」と読み、伊都国(糸島)とする説だ。志賀島とも近い。
(六)なぜ志賀島から
志賀島という辺境の島から異例なかたちで出土したことに何か意味が?これも諸説ある。奴国王の墓があった、いや志賀海神社の社宝で祭りの場だったなどだが、注目されるのは「奴国が没落して金印を島に隠したのだ」という説。
(七)二千年ぶりに再会した兄弟「金印」
平成元年、福岡市で開かれたアジア太平洋博覧会に中国から特別に金印が出品された。この金印は一九八一年、江蘇省で発見されたもので、よく調べたら志賀島の金印の一年後に造られた兄弟印であることがわかった。ともに洛陽の工房で規格、字体、装飾と何から何までそっくりだった。福岡市で二千年ぶりに再会するとは正に驚きだ。観客は深く感動した。
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二〇〇五年十一月十五日に開館した九州国立博物館(大宰府市)では志賀島の金印が特別展示された(但し、三週間の限定展示)。あわせて「弟印」も展示された。弟印は「廣(おう)陵(りょう)王(おう)璽(じ)」(南京博物館所蔵)である。さらに、この展示では紀元前一〇九年に造られた「滇王(てんおう)之印」(中国歴史博物館所蔵)も並んで展示され、めったにない鑑賞の機会が実現した。

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コメント

  1. 志野 より:

    「廣(おう)陵(りょう)王(おう)霊(じ)」は「璽」です。